没後40年熊谷守一生きるよろこび仙人と呼ばれたモリの回顧展

リアル仙人

それが、私の受けた彼の

第一印象である。

明治大正を経て、昭和の時代まで

実に97年間を生きた、その画家は

昭和52年1977年に旅立った。

それから40年。

彼の回顧展が皇居平川門からほど近い

東京国立近代美術館にて開催されている。

熊谷守一

生きるよろこび

没後40年熊谷守一生きるよろこび2018年1月訪問撮影

皇居平川門の目と鼻の先に佇む東京国立近代美術館は、静かに名品を鑑賞できる美術館

西南戦争が終わって間もない

明治13年1880年4月2日。

岐阜県恵那郡付地村現岐阜県中津川市付地村の

裕福な地主の家庭に、1人の男の子が誕生した。

彼こと、熊谷守一である。

熊谷守一(6歳

出典岐阜県公式ホームページ

幼いころから絵が大好きだった守一は

17歳で東京へ。

明治33年1900年東京美術学校

東京藝術大学に入学。

東京美術学校東京藝術大学の同級生たちと

出典岐阜県公式ホームページ

前列左熊谷守一後列左青木繁

心優しい守一は、貧しく絵の具を買えなかった青木繁の絵の具箱に

そっと使いかけの絵の具を気付かせないように、いれてあげたという

同級生には海の幸で広く知られる

夭折の悲しき画家青木繁がいた。

海の幸青木繁1904年ブリジストン美術館重要文化財

出典ブリジストン美術館公式ホームページ

洋画では最も早い1967年に重要文化財指定を受けた

東京美術学校を首席で卒業した守一だったが

孫六郎の急死により生活が一変。

父の像熊谷守一19101915年岐阜市

出典東京国立近代美術館公式ホームページ

岐阜の初代市長で衆議院議員も務めた、父熊谷孫六

本展出品作品

絵画だけでは生活できず

樺太漁場調査隊や渓流で木材を運ぶ

運搬の仕事ヒヨウなどの

アルバイトをすることになった。

?燭ローソク熊谷守一1909年岐阜県美術館蔵

出典東京国立近代美術館公式ホームページ

第3回文展入賞作品

本展出品作品

偉大な父を失った不安な生活の中

懸命に生きなければならなかった守一。

まさにその時の心境を投影したであろう

?燭ローソクで第3回文展に入賞。

新進画家として期待をされるも

続く第4回文展に偶然見かけ衝撃を受けた

踏切での若い女性の轢死を描き

題材不適当とされ、作品の搬入さえできなかった。

轢死を目撃したことで

心に痛烈に感じたなにか

同じ時期、同じような出来事を

夏目漱石も著作三四郎の中に

書き記している。

野宮の家の近くで

轢死れきし事件があった。

現場に駆けつけた三四郎

体が引きちぎれた死体を見る。

若い女だった。

三四郎は寝付けない夜を過ごす

(夏目漱石三四郎より抜粋

夏目漱石18671916明治43年4月撮影

出典漱石全集第9巻門口絵(岩波書店

時を経て家庭を持つも

無欲な守一のこと。

困窮する状態は変わらず。

ある日3人の子どもが高熱を出したが

長男陽だけは真っ赤な顔のままで

泣き声をたてることもない。

慌てて医者に駆け込むも

手遅れだった。

旅立った幼子に添い寝をし

子守唄を歌い、庭から木の枝を採って

赤い毛布の上に添え、空き缶に蝋燭を立てた。

そうして彼は、必死でわが子を描いた。

それだけが旅立ったわが子にしてあげられる

唯一のことだったのかもしれない。

陽の死んだ日熊谷守一1928年大原美術館

出典大原美術館公式ホームページ

絵の具の塗り方の激しさから、守一のやるせない

心の叫びがいまも伝わってくる本展出品作品

昭和31年(1956年

軽い脳卒中の発作を起こし

ほとんど外出しなくなった守一。

熊谷守一18801977

出典東京国立近代美術館公式ホームページ

自宅の庭で出合う、小さな虫や

動物たちを描き始める。

熊谷守一1965年愛知県美術館

出典東京国立近代美術館公式ホームページ

木村定三コレクション本展出品作品

稚魚

稚魚熊谷守一1958年天童市美術館蔵

出典東京国立近代美術館公式ホームページ

アンリマティスのダンスからヒントを得たといわれている

本展出品作品

赤い色を素早く捉え

青い色はゆっくりと認識するーー。

そうした人間の目の動きを考えた上で

描かれた稚魚

じっと見ていると魚だけが

動いているような、そんな気もする。

一見ユーモラス。

それでいて独特な味わいがある

守一の作品たち。

伸餅

伸餅1949年愛知県美術館

出典東京国立近代美術館公式ホームページ

木村定三コレクション

本展出品作品

ある展覧会で、この絵をご覧になった

昭和天皇はこう質問なさったという。

これは何歳くらいの子が描いたのですか?

このエピソードは、なんだかかわいらしく

とても印象的で大好きだ。

東京国立近代美術館中庭とミュージアムショップ

通りを挟み左手は皇居という、静かで素晴らしい場所にある

守一の魅力は、彼が遺した

言葉の数にもあると、私は思う。

もしも機会があれば

是非とも蒼蝿を読んでほしい。

蒼蝿熊谷守一求龍堂

守一の精神が詰まった1冊。写真家土門拳撮影の守一の写真も魅力的だ

出典求龍堂公式ホームページ

気ぜわしい日常の中、張り詰めた心が

自然にそっと癒されるような

ふんわりしたエピソードが詰まっており

読むたび、心がホッとする。

そのままの自分でいいんだよ

守一がそう本の中から語りかけてくるような

そんな温かさを感じる1冊だ。

白樺派のメンバーたちと会議をする、熊谷守一

写真左より武者小路実篤熊谷守一志賀直哉梅原龍三郎

昭和23年1948年5月、日本橋丸善にて熊谷守一近作展開催。

同年白樺派が刊行した雑誌心の同人となった守一は、挿絵を手掛けた。

新潮文庫志賀直哉作品の表紙絵は、いまも守一の絵が彩る

本展では、200点を超える作品に加え

スケッチや日記なども紹介され

大変充実しているが、残念ながら

なにか大切なものが

私には感じられなかった。

それは守一の存在だ。

4年前、熊谷守一の絵を観たく

彼のかつての住居でもある

豊島区立熊谷守一美術館を

初めて訪ねた時に感じた

温かな愛情溢れる、不思議な空気感。

豊島区立熊谷守一美術館東京都豊島区千早2-27-6

2014年5月訪問撮影

敷地の建物はすでに現代風となっているも、中には温かな空気が流れている

熊谷守一をモリと呼び

深く愛した、家族たち。

食卓を囲み、ともに過ごした

仲の良い家族の温かな風景。

建物はコンクリート造りの

現代風なお洒落なものに変わっても

その静かで温かな家族の愛情は

いまでもこの場所に確かにある

そう感じた。

鴉に毛繕いされる、在りし日の熊谷守一

守一は、きっと本物の仙人となって

いまもこの場所に生き続けているのかもしれない

そう思ったほど、なんだか不思議な気配を感じた。

私が好きだったのは守一の絵そのものよりむしろ

そこから感じる、人間的な温かさだったのかもしれないと

今回初めて気づかされた。

熊谷守一美術館内のカフェカフェkaya

いまを生きる、美大生たちの作品でいただく、温かな珈琲。

守一の次女榧かやさんの絵をあしらった、ティーマットも素敵

20代で初めて目にした

人間の轢死

偉大な父を失った喪失感

母との別れ。

悔やみきれない、長男の死。

21歳の時に結核で亡くなった

長女萬。

ヤキバノカエリ熊谷守一19481955年岐阜県美術館蔵

結核で亡くなった娘萬。火葬場からの帰り道を描いた作品

アンドレドランのルペックを流れるセーヌ川を参考に描いた

数多くの死と直面し

守一が感じた深い悲しみ。

それらを乗り越えてたどり着いた

生きとし生きるものの命の輝き

熊谷守一の遺した作品の数には

彼が終生見つめ続けた小さな命と

生きるよろこびとが溢れている。

没後40年熊谷守一生きるよろこび3月21日まで開催中

10時17時金土は20時まで入館は30分前まで

白猫のミニクリアファイルと1番心に残った稚魚のポストカードを購入

東京国立近代美術館東京都千代田区北の丸公園3-1

熊谷守一の生涯を描いた映画作品モリのいる場所

主演山崎努監督沖田修一2018年5月に公開予定

みなしゃま、ご機嫌いかがでしゅか

どうかぬくぬくとおしゅごしくだしゃい

byちぃぼう